プロサッカー選手や、長く現役を続けてきた選手が、子どもたちに言う言葉があります。
「サッカーを楽しんでほしい」
すごくありふれた言葉です。
僕も昔は、そこまで深く考えたことはありませんでした。
でも、自分自身が長くサッカーを続けて、競争の中に身を置いて、そして今、子どもたちのサッカーに関わるようになって。
ようやく、この言葉の本当の意味が少し分かってきた気がします。
もしかしたらこれは、
サッカーの世界で生きてきた人間だからこそ、最後にたどり着く言葉なのかもしれません。

あんなに好きだったサッカーなのに
子どもの頃、サッカーをするのに理由なんてありませんでした。
ボールがあれば蹴った。
友達がいれば試合が始まった。
暗くなるまでボールを追いかけた。
昨日できなかったことができるようになったら嬉しくて、何度も同じ技をやった。
もっと上手くなりたい。
もっと試合がしたい。
もっとボールを触りたい。
誰かに言われたわけじゃない。
そこに契約も、お金も、評価もありません。
ただ、
サッカーが好きだった。
それだけでした。
そして、その「好き」が人をものすごい速度で成長させることがあります。
好きだから練習する。
好きだから考える。
好きだから失敗しても、もう一回やる。
好きだから、誰にも言われていないのにボールを触る。
子どもの頃は、それを「努力」だとすら思っていなかったのかもしれません。
ただ、やりたかった。
今振り返ると、あの頃が一番純粋にサッカーと向き合っていたのかもしれません。

夢に近づくほど、サッカーは変わっていく
上手くなっていくと、少しずつ世界が変わります。
選抜される。
レギュラーを争う。
結果を求められる。
監督から評価される。
試合に出る選手と出られない選手が生まれる。
カテゴリーが上がれば、さらに競争は激しくなる。
そして、その先にプロの世界があります。
子どもの頃から夢見ていた場所です。
サッカーをしてお金をもらう。
好きなサッカーで生活する。
こんな幸せなことはないように見えます。
実際、それは本当に素晴らしいことです。
でも同時に、そこからサッカーにはもう一つの顔が生まれます。
「仕事」です。
試合に出なければいけない。
結果を残さなければいけない。
契約を勝ち取らなければいけない。
チームから必要とされなければいけない。
自分の生活もある。
家族の生活だってある。
昨日ミスをしても、今日練習がある。
身体が重くても練習がある。
気持ちが乗らない日でもグラウンドへ行く。
当然です。
仕事だから。
でも、ここにサッカーという競技の、とても難しい矛盾があるように思います。
「やりたい」が「やらなければならない」に変わる瞬間
昔は、
「サッカーがしたい」
だった。
それがいつしか、
「サッカーをしなければならない」
になることがあります。
たった数文字の違いです。
でも、選手の心の中では、とても大きな違いです。
好きだから始めたはずなのに。
上手くなりたくて、誰よりもボールを蹴ってきたはずなのに。
夢を叶えるために努力してきたはずなのに。
その夢に近づけば近づくほど、
サッカーが義務になっていくことがある。
これは、ものすごく皮肉なことです。
そして、選手自身もその変化になかなか気づけません。
練習している。
身体も作っている。
試合にも出ている。
外から見れば、何も変わっていない。
でも心の中では、
「今日もサッカーしたい」
ではなく、
「今日もやらなきゃ」
になっている。
この違いは、とても大きいと思っています。

好きだからこそ、苦しくなる
嫌いなものなら、やめればいい。
でもサッカーは違います。
人生をかけて好きだったものだからこそ、簡単には離れられません。
むしろ、
好きだったから苦しい。
こんな矛盾があります。
結果が出ない。
試合に出られない。
評価されない。
怪我をする。
契約がどうなるか分からない。
周りの選手が活躍する。
後輩が入ってくる。
自分の価値を、毎日のように突きつけられる。
そうなると、
「サッカーが上手くなりたい」
より、
「失敗したくない」
が強くなることがあります。
挑戦するより、ミスを避ける。
自分の感覚より、監督の顔を見る。
楽しむより、評価を気にする。
いつの間にか、
サッカーをしている自分ではなく、評価されるための自分になってしまう。
でも本来、選手を成長させてきたのは、そんな気持ちではなかったはずです。
人は「やらされている」と感じた瞬間、何かを失う
これはサッカーだけではないと思います。
自分からやりたいと思っている人間は強い。
もっと知りたい。
もっと上手くなりたい。
次はこうしてみよう。
失敗した。
じゃあ今度は違うことをやってみよう。
そこには好奇心があります。
自分の意思があります。
でも、
「やれと言われたからやる」
になると、人は少しずつ考えなくなります。
怒られないためにやる。
間違えないためにやる。
評価を落とさないためにやる。
そしてサッカーでは、これがとても怖い。
なぜなら本来サッカーは、
自分で判断し続けるスポーツだからです。
試合中、監督がすべてを指示することはできません。
ボールが来る。
相手が来る。
仲間が動く。
スペースが変わる。
その一瞬で、
見る。
考える。
決める。
実行する。
だから本来、選手には主体性が必要です。
ところが子どもの頃から、
「そこに出せ」
「シュート打て」
「戻れ」
「ドリブルするな」
と全部大人が決めてしまったら、
選手はいつか、
「どうしたらいい?」と大人を見るようになります。
それは僕たちが育てたいサッカー選手の姿ではありません。
「楽しめ」は「ふざけろ」という意味ではない
ここは、とても大切です。
「サッカーを楽しもう」
というと、
厳しいことをしない。
勝敗を気にしない。
楽な練習だけする。
そんな意味に捉えられることがあります。
僕が思う「楽しむ」は全く違います。
本気でやるから楽しいんです。
勝ったら飛び上がるほど嬉しい。
負けたら涙が出るほど悔しい。
できなかったプレーを何度も練習する。
仲間とぶつかる。
走れなくなるくらい走る。
それでも、
「もう一回やりたい」
と思う。
それがサッカーを楽しむということだと思っています。
楽しいと、楽は違う。
むしろ本当に好きなことなら、人は苦しいことさえ自分からやります。
誰にも言われていないのに練習する。
できないから悔しくて、もう一回やる。
負けた翌日にボールを蹴る。
僕は、そこに本当の成長があると思っています。

子どもたちの「好き」を、大人が奪ってはいけない
だから今、子どもたちを指導する立場になって強く思うことがあります。
大人は子どもを上手くしてあげたい。
試合に勝たせてあげたい。
失敗させたくない。
遠回りさせたくない。
だから、つい答えを教えたくなります。
でも、それは本当に子どものためなのか。
大人が答えを全部教えれば、短期的には勝てるかもしれません。
ポジションを固定する。
プレーを限定する。
ベンチから全部指示する。
ミスをした選手を下げる。
上手い選手だけを使う。
もしかしたら、その方が小学生の試合では勝てることもあるでしょう。
でも僕たちが育てているのは、
今日の試合に勝つためだけの小学生ではありません。
その子には、中学生のサッカーがあります。
高校生のサッカーがあります。
その先の人生があります。
僕たち大人がいなくなったあとも、その子は自分で選択していかなければならない。
だからこそ、
自分で考える。
自分で決める。
やってみる。
失敗する。
悔しがる。
また考える。
そして、できるようになる。
その時間を奪ってはいけないと思っています。
「失敗させないこと」が愛情とは限らない
大人になると、先が見えてしまいます。
「そっちに行ったら失敗するよ」
と分かってしまう。
だから先回りして教えたくなる。
でも子どもにとっては、その失敗そのものが経験です。
ボールを取られる。
試合に負ける。
判断を間違える。
悔しくて泣く。
それでいい。
そのとき、
「じゃあ次はどうする?」
と自分で考えることができれば、その失敗には大きな価値があります。
僕たち指導者がやるべきなのは、
失敗をなくすことではなく、
失敗しても、もう一度挑戦できる場所を作ることなのかもしれません。

プロになれなかったら、サッカー人生は失敗なのか
僕はそうは思いません。
もちろん、プロを目指す子がいるなら全力で応援したい。
高いところを目指してほしい。
本気で夢を追いかけてほしい。
でも、プロになれる人数は限られています。
では、プロにならなかった残りの子どもたちのサッカーは失敗なのでしょうか。
絶対に違うと思います。
高校まで本気でやった。
大学まで続けた。
社会人リーグでプレーする。
週末に仲間とボールを蹴る。
指導者になる。
自分の子どもと公園でサッカーをする。
スタジアムへ試合を見に行く。
それぞれでいい。
僕は、
30歳になっても40歳になっても「サッカーってやっぱりいいな」と思える人間を増やすことも、育成だと思っています。
子どもたちは、僕たちが思っているより早く大人になる
小学生の時間は長いようで、本当に短いです。
今は毎週グラウンドに来ている子も、いつか卒団します。
大きなバッグを背負って練習に来ている姿も、
泥だらけのユニフォームも、
負けて泣いている顔も、
ゴールを決めて走ってくる姿も、
ずっと続くわけではありません。
気づけば中学生になり、高校生になり、大人になります。
だから僕たち大人が、
その短い少年時代のサッカーを、
結果だけで埋め尽くしてしまってはいけないと思っています。
勝った、負けた。
上手い、下手。
レギュラー、控え。
そんなものだけではなく、
仲間と笑ったこと。
悔しくて泣いたこと。
初めてできたプレー。
遠征のバス。
合宿の夜。
雨の中の試合。
コーチに怒られたことさえ、いつか笑い話になるかもしれない。
そういう全部を含めて、
「サッカーやってて良かったな」
と思ってほしい。
僕たち大人は、サッカーを返してあげなければならない
サッカーは監督のものではありません。
コーチのものでもありません。
保護者のものでもありません。
プレーしている子ども自身のものです。
大人はそこに関わらせてもらっているだけなのかもしれません。
だから、
勝たせたいという大人の欲。
上手くさせたいという大人の焦り。
周りより成長してほしいという期待。
それを一度横に置いて、
目の前の子どもが、
「今日もサッカーしたい」
と思えているか。
そこを見てあげたい。
僕自身、完璧にできるわけではありません。
勝ちたいと思います。
熱くなることもあります。
もっとやれと思うこともあります。
だからこそ、自分にも問い続けたいと思っています。
これは子どものためなのか。
それとも、大人の満足のためなのか。
最後に残るもの
サッカーを長くやってきて思います。
勝った試合のスコアを全部覚えているわけではありません。
何年何月にどの大会で何位だったかなんて、忘れているものもあります。
でも、不思議と覚えているものがあります。
仲間の顔。
グラウンドの匂い。
試合前の緊張。
ゴールを決めた瞬間。
負けて動けなくなるほど悔しかった日。
遠征の帰り道。
そして、
ただただボールを蹴ることが楽しかった頃の感覚。
結局、人の心に最後まで残るのは、そういうものなのかもしれません。
だから今なら分かる気がします。
なぜ多くのサッカー選手が、
子どもたちに、
「サッカーを楽しめ」
と言うのか。
それはきっと、
楽しいことだけやってほしいからではない。
苦しい世界を知らないからでもない。
むしろ逆です。
競争も知っている。
挫折も知っている。
評価される苦しさも知っている。
好きだったサッカーが「仕事」になる感覚も知っている。
そして、
「やりたい」が「やらなければならない」に変わってしまう怖さを知っている。
だからこそ伝えたいんだと思います。
上手くなってほしい。
勝ってほしい。
夢を叶えてほしい。
でも、その途中で一番大切なものを置いていかないでほしい。
サッカーを始めた日の気持ちを忘れないでほしい。
誰かに評価されるためじゃない。
怒られないためでもない。
試合に出るためだけでもない。
自分がサッカーをしたいから、サッカーをする。
その気持ちを持っている選手は強い。
そして僕は、そんな選手を育てたい。
成功より、成長を。
勝敗の先にある、その子自身の人生まで考える。
自分で考え、
自分で決め、
自分で挑戦し、
自分で失敗し、
それでもまた、自分からボールを蹴りたくなる。
そんな環境をつくりたい。
子どもたちがいつか大人になったとき、
プロになっていても、
違う仕事をしていても、
どんな人生を歩んでいても、
ボールを見た瞬間に少しワクワクして、
「俺、サッカーやってて良かったな」
そう思ってくれたら。
僕は、それも一つの育成の成功だと思っています。
そして今日も、子どもたちには思い切りサッカーをしてほしい。
失敗していい。
泣いていい。
悔しがっていい。
勝ったら思い切り喜べばいい。
ただ一つだけ。
サッカーを嫌いにならないでほしい。
僕たち大人が守るべきものは、
もしかしたら才能より先に、
子どもたちの心の中にある、
「サッカーが好きだ」
という小さな火なのかもしれません。
その火を消さずに、大きくしていく。
それがPONO FOOTBALL CLUBが目指したい育成です。
PONO FOOTBALL CLUB
成功より、成長を。
そして、いつまでもサッカーを好きでいられる選手へ。


